情報を守ることは本当に“善”か?

情報社会の違和感

つい先日、今話題のイーロン・マスクは、自身のxAI社がX社(旧Twitter)を買収したとニュースがありました。このコメント欄をのぞいてみると、個人情報への懸念について多数コメントが寄せられていました。

近年、「個人情報が抜かれる」、「勝手に使われている」という言葉をよく耳にするようになりました。
AIの発展やSNSの普及とともに、「情報」が “何か大切なもの” として扱われる場面が増えています。

もちろん、個人の権利が尊重されることは大切です。
しかし、私はこの風潮に、どこか、いや少し、違和感を抱いています。

情報を怖がるだけでいいのか

私は医師として日々の診療に携わっています。
その中で常に感じるのは、現代医療の多くが、過去の患者の情報に支えられているという事実です。

診断・治療の指針も、薬の効果・副作用の知見も、すべては「誰かが経験し、残してくれた記録」の集積です。
つまり私たちが行っている医療は、無名の誰かの貢献の上に成り立っているのです。

そのことを、もっと社会全体で理解し、評価すべきではないでしょうか。

本当に守るべきものとは

確かに、氏名や住所、クレジットカード番号といった情報は、厳重に保護されるべきです。
ですが、匿名化された診療情報や投稿データまでも「使ってはならない」とする風潮には、
「それで未来の医療は本当に守れるのか?」という疑問が残ります。

情報を守ることばかりが注目され、
その情報がどのように社会を支えるかという視点がちょっと抜け落ちているような、議論が少ないような気がしています

私は、情報は「守るもの」であると同時に、「使われるべきもの」でもあると思っています。
少なくとも、悪用されない限りにおいては、未来に向けて積極的に活用されるべきだと。

情報は“未来への贈り物”になりうる

自分の診療記録が、将来の誰かの命を救う一助になるかもしれない。
その可能性に目を向けることも、情報社会を生きる一つの姿勢だと思います。

過去の患者が残してくれた情報が、今の医療を支えているように、
今の私たちの情報が、これからの医療を支える可能性があるのです。

情報は資産であり、同時に未来への贈り物でもあります。

情報のコントロール権とは何か

「プライバシー権」とは、本来、情報を“誰にも使わせない権利”ではありません。
それはむしろ、自分の情報を、自分の意志でどう扱うかを決める権利です。

問題なのは、「勝手に使われた」と感じる不透明さであって、
本来は“使っていい”という判断もまた、尊重されるべき意思表示のはずです。

医療データが研究に使われることや、AIがSNSの投稿を学習すること。
それは“恐れるべきこと”ではなく、“未来を支える行為”にもなり得ます。

情報の「悪用」は確かに問題ですが、「活用」まで敵視する必要はないのではないかと思います。
私たちは“情報を提供する側”としても、未来への責任を持つ存在なのです。

医の心得として、伝えたいこと

私は医師として、日々たくさんの患者と向き合っています。
そのすべての記録が、後の医療の糧となります。

この積み重ねこそが、医療を進化させてきました。
そしてそれは、誰かが“自分の情報を使っていい”と思ってくれたからこそ可能だったことです。

情報はただ守るだけのものではありません。
未来の命を守る“材料”にもなりうるのです。

私が「医の心得」として伝えたいのは、
過去の患者の情報が今の医療を支えており、
今のあなたの情報が未来の医療を支えるかもしれないという、
静かで力強い連鎖の存在です。

だから私は、情報を恐れすぎず、
その価値を正しく理解し、活かしていく社会であってほしいと願っています。

おわりに

この情報化社会において、私たちは何を守り、何を使うべきなのか。
すべてを守れば安心なのか。何も使わなければ、進歩は止まらないのか。

「情報を提供する」という行為が、
いつかどこかで誰かを救うかもしれない。

そんな未来への信頼もまた、
**「医の心得」** のひとつだと私は思っています。

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